アントワン・サージェントとアメリカの物語

『The New Black Vanguard』のキュレーターが黒人とファッションを媒介にしたアート写真を語る

  • インタビュー: Haley Mlotek
  • 写真: Dana Scruggs

アントワン・サージェント(Antwaun Sargent)は横を向いて話す。私がこの31歳のライター兼評論家に会ったのは、最近出版された彼の著書『The New Black Vanguard: Photography Between Art and Fashion』に関連して、ニューヨークのチェルシー地区にあるApertureギャラリーで開かれた展覧会だった。ちなみに、会期は1月18日までだ。すべての作品の前で、サージェントは私の隣りに立った。そして、私に見せようとするものについて思案しながら指を上唇に当てているか、関心の対象に向かって手を伸ばした。そうでなくても、見ているものの方を向いたまま話せるように、顔は写真の方を向いたままだった。

同じように、サージェントは、常に側面から物事を見るという形をとってきた。彼は、アーティスト達がそれぞれの分野で表現する生き様を、何にも遮られることなく見るという作業に力を注いできた。これまでに『ザ・ニューヨーカー』、『ニューヨーク・タイムズ』、『GQ』、『ネーション』などのメディアで執筆し、アトランタ コンテンポラリー アートセンターやハーレム スタジオ美術館、オンタリオ美術館で講演を行い、アーサー・ジャファ(Arthur Jafa)やミカリーン・トーマス(Mickalene Thomas)といったアーティストの展覧会カタログに執筆してきた。彼の処女作『The New Black Vanguard』は、レネル・メドラノ(Renell Medrano)、ナディーン・イジャウェー(Nadine Ijewere)、ダニエル・オバシ(Daniel Obasi)、ルース・オッサイ(Ruth Ossai)など、15人のフォトグラファーたちを特集したポートフォリオ コレクションだ。サージェントが本の前書きにもなっているエッセイで書いているように、彼らは「アフリカ人のディアスポラという枠を越え、国際的に活動する、新進黒人フォトグラファーの先駆者たちであり、カメラを使って、黒人の生活を現代的な手法で表現し、具象表現の枠組みに新たな解釈を与えている」ような、アーティストの集団だ。

サージェントは自分のエッセイを評論と考えており、そのなかでコミュニティを今なお明らかになり続ける過去とまだ見ぬ未来の間に位置づけて論じている。『The New Black Vanguard』は、単にその写真を撮っているのは誰かを問いかけているのではない。写真1枚を作り上げるのにどれくらいかかるかを問いかけている。アートとファッションが交差する場所で、商業は思いもよらず好ましくない影響として現れる。サージェントと『The New Black Vanguard』のフォトグラファーたちは、そのような不一致の中で、どうすれば美ができる限り誠実でいられるかを明らかにする。収録された写真の多くは、ファッションの文脈で撮られたか、ファッションの影響を受けたもので、サージェントが書いているように、「どうすれば、ファッションのイメージが、あら探しばかりするのではなく、実生活をより反映したものになれるのか」を丁寧に考察し直している。『Garage』のディアナ・ローソン(Deana Lawson)によるリアーナ(Rihanna)の写真、『Playboy』のエイドリアン・ラケル(Adrienne Raquel)によるリゾ(Lizzo)の写真集、そしてタイラー・ミッチェル(Tyler Mitchell)によるビヨンセ(Beyoncé)のポートレート。これにより、ミッチェルは『Vogue』のカバーを撮影した初の黒人フォトグラファーとなった。サージェントのキュレーションのもと、展開では雑誌がいっぱい詰まった陳列ケースも展示されている。ガラスの陳列ケースには『FADER』や『Niijournal』のような現代の雑誌もあれば、『黒人写真家年鑑 1973年』に並んで『Ebony』や『Hue』、『Jet』の初版といった逸品も置かれた。

サージェントは、「ファッションは影響を受けやすい記録である」と書く。シアーズで撮る家族写真もタイムズスクエアにある大きな広告掲示板も、サージェントにとってはファッションの写真となる。「イメージの中だけでなく、その構造にも多様性があるんだ」と、彼は私に説明してくれた。サージェントは、静物やポートレート、ストリートスタイルや風景を撮影するフォトグラファーも取り上げているが、その多くが、ファッションを前面に出したいという欲求を共有している。そして「僕たちは皆、こうしたイメージを見てそれぞれ異なるものを得ている」と言う。「イメージにはこういうマジックがある。こういうパワーがあるんだ」

横顔の被写体になることも厭わない、珍しいライターであるサージェントと私は、読むこと、書くこと、そしてアート界の内外で起きている、さまざまな企画の動きについて話した。その会話は、壁にかけられた写真の中の世界と、いまだ外で待ち受けている世界の間を行ったり来たりしたのだった。

ヘイリー・ムロテック(Haley Mlotek)

アントワン・サージェント(Antwaun Sargent)

ヘイリー・ムロテック:まず、ライターになる前に幼稚園の先生になった経緯から聞きかせてください。

アントワン・サージェント:僕はジョージタウン大学に行ったのだけど、大学で僕らはひとりではない、自分たちの暮らす世界に対して、社会貢献する必要があるのだと学んだ。学校を卒業してからも、何らかの形で奉仕をしたかった。それで、ニューヨークに引っ越して、教育NPOのTeach for Americaを通じてイースト ニューヨークの幼稚園の教員になったんだ。これまでの人生でやってきたことのなかで、最もやりがいのある、正気じゃないことだった。Teach for Americaには本当にたくさんの問題があって、その多くは僕が組織の一員だったときに意見したし、これからも言っていくつもり。イースト ニューヨークは低所得地域で、僕はそこに救世主として行ったわけじゃない。教員としての仕事は、僕がここでやっている仕事と変わらない。それはある意味で、結果をもう少し耐えうるものにしようとする、愛の行動だ。住む場所によって野心が決まってしまうような貧しい地域に住む黒人や有色人種の子どもたちのためにやっているのか、重要な写真を撮っているのに無名の若いアーティストのグループのためにやっているか、という違いだけだよ。僕には、コミュニティ意識があるんだと思う。そのために、いかなるときも共に生き、近くにいて、その期待に沿おうとしてきた。

展覧会にあった雑誌は、世代や媒体を超えたアーティスト同士の対話のような、本の最後部分に似た機能を果たしているように見えます。このプロジェクトには、教育的な部分があるのでしょうか? 必ずしも規範的な意味ではなく、別のタイプの学びを提供するという意味で。

雑誌には2つの目的がある。まず、自分が生きる時代の技術を活用するフォトグラファーは新しいと思われているけれど、そんなことはない。今の世代にはソーシャルメディアがあるけれど、前の世代には、自分の写真を広める方法として雑誌があった。僕は、フォトグラファーというか、アーティスト全般が、意図的な装置として、テクノロジーの活用方法を考えることに長けていたかを、人々に考えてもらいたかったんだ。

あと、これらのフォトグラファーたちの取り組みには、背景があることも伝えたかった。大抵、黒人の何かについて考えるとき、彼らは過去から来たのではなく、「これが最初のやつ」みたいな、突然現れたという感覚がある。未来を見るために現在を見ているとしても、過去に対するちゃんとした共感もあるんだ。でも、若い世代のイメージ メーカーに影響を与えるフォトグラファーの多くは、それに相応する扱いを受けなかった。ここに『黒人写真家年鑑 1973年』があるけれど、これは、自分たちの画像を見せるためにフォトグラファーのグループが始めたものなんだ。ジャマル・ネドラーナ(Jamal Nxedlana)がBubblegum Clubでしていることや、キャンベル・アディ(Campbell Addy)が『Niijournal』でやっていることと変わらないよ。

ここにあるキル・レモンズ(Quil Lemons)のシリーズ「Purple」を見てみると、世代間のプロジェクトであることがわかる。これは彼の家族の女性たち、おばあちゃんとお母さんと妹たちだ。彼はバージニアでの祖母の写真で、彼女が生まれた農場でプレーリードレスを着ているのを見て、Batshevaのドレスを思い出した。そこで「待てよ、おばあちゃんがこれを着ているのなら、ファッションを使って対話をしてみよう」と思ったんだ。彼は、黒人が出てくることの少ない故郷の概念に対して、装置としてファッションを使ってアメリカの物語を描き出している。そして、ドレスを使うことで、文化的遺産について多くを語った。忘れないためには、どれほど頻繁に、無理にでも記憶する必要があるのかについてね。

ファッションの中で記憶を使用することは特に重要ですね。ファッションは周期的であると言ってそれ以上突っ込まないのが常套句になっていますが、トレンドはただ繰り返されるわけではりません。繰り返すたびに重要性を増す力が、トレンドにはある。

実際、キルがトレンドに対してそういう反応をしたんだ。そして、僕たちがそこにいる人たちについて考えている中で、史実が消されてしまっていることに気づいた。そして、その人たちに対する理解の助けになるようなイメージを作り出し、ドレスを介してつながりを描くことができるのだと気づいたんだ。より壮大な物語を描き出すために、フォトグラファーたちがファッションを使う方法は興味深いよ。スティーブン・タヨ(Stephen Tayo)のように、必ずしも明らかではない世代のつながりについて語るフォトグラファーもいる。タヨはラゴスを拠点とするフォトグラファーで、僕は彼の作品を「軽く演出されたドキュメンタリー写真」と呼んでいるんだ。彼はラゴスを歩き回り、写真を撮影してもよいかどうか尋ねて了解をとると、今すぐに撮りたいか、それともその被写体となる人が着たいものを着られるように、次の日の同じ時間に戻ってきて撮影した方がいいかを聞くんだ。それは、ジャメール・シャバズ(Jamel Shabazz)が1980年代に路上で「あなたのレガシーを写真に収めてもいいですか?」と尋ねたのと変わらない。こういう歴史の小さな部分、フォトグラファーたちの倫理的な行動の仕方で、彼らが写真そのものについてどういう風に考えているかが本当によくわかる。

思うに、人種であれ、アイデンティティであれ、環境や新しい未来に対して想像を膨らますのであれ、アーティストたちは常に時代が抱える問題に取り組んでいる。大抵、こういう疑問を最初に提議するのはアーティストだ。政治家でも活動家でもない。タイラー・ミッチェルが黒人としての自覚や多様性について考えるとき、彼は、アメリカ人という自己や娯楽の中で黒人らしさを表現できる場所について考えている。黒人の身体を、そのまま労働力、生産性に結びつけてきた、従来の資本主義構造を拒んでいるんだ。アートにおいて、黒人は何かをしている姿として捉えられることが多い。抗議だったり、スポーツだったり、活動的なんだ。そしてその活動が彼らの存在を正当化している。イメージの中で、それを拒否するのは重要だよ。今あるイメージについて考えているアーティストというのはそういう人たちで、それこそが、黒人の物語を拡大していくなかで、アーティストが貢献できる方法だ。

こうした世界はどれも本当に終わっている。教育は最悪だし、アートの世界も最悪だし、ファッションも最悪。若い人たちは「問題があることはわかっている」、「仕事が減っているのはわかっている」、「自分はどうでもいいと思われていることはわかっている」と言うだろう。でも雑誌や写真やアートには、まだこうした世界のために貢献したいと思わせる何かがある。そういうものにも力があるのだと語りかけてくるから。それらが不合理であろうとするならば、僕はフリーランスの作家兼評論家として、喜んで取り上げるよ。そもそも文章を書くときに、ある程度の不合理はつきものだ。文章を書いて、まともに稼ぐという考えは、この街では希薄だよね。

それは絶対に合理的ではないですね。感情面では、それなりに筋が通っているのでしょうが。

そうそう。みんな、どうやってアートについて書くの? って感じだし。見るものはこんなにたくさんあるのにね。好きだからやる、そうでなければ、他にすることがないからやるんだよ。

僕は常にアーティスト自身の声に触れようと考えてる。僕にとって、そのアーティストにインタビューして、彼らが何をしようとしていたのかを考えるのは重要だ。それが分かるときもあれば、分からないときもある。その距離感は、作品にじっくりと向き合うには当然のものだ。これが美術批評とは違うやり方だということはわかっているけれど、別のやり方はもう長い間見てきたし、それによって、かなり多くの人たちが取り残された。アートとは何か、美とは何か、誰が重要かという定義が狭められたんだ。僕はいつも思うのだけど、今のこんな時代、黒人アーティストという点で言えば、文化的生産における復興が見られる今でさえも、以前と同じ批評家がこの世界について書いている。彼らが長い間無視してきたり、ひどい場合には、中傷したりしていたという事実に言及することなく。こんなのが誠実なわけない。

僕らには手段がたくさんある。若手の黒人アーティストたちは、前の世代には得られなかったようなチャンスを手にするようになっている。そして、ここにたどり着くまでに何が消されてきたのかを認識することが重要だ。批評は大事だと言うのなら、僕もそれには賛成だけど、もっと自らを見つめられるようになる必要がある。昔からある出版物だからといって、ずっとそこで書いている批評家たちが、限界を押し広げる23歳の黒人フォトグラファーについて語るのに最適だと言えるだろうか。僕は『Vice』に1件の投稿あたり25ドルで書いてきたんだけど、こうして頑張って獲得してきた仕事で、そこそこ楽しめている今だって、何かを書くのに自分が最適な人間とは限らないと思ってる。だから僕はいつも自分以外に10人のライターのリストを編集者に送るんだ。誰かに僕がいくらもらったかを聞かれたら、正確にいくらもらったかを言うよ。不平等のレガシーの一部にはなりたくないからね。

カルチャーの分野における労働について、私たちはある種の理解に再び立ち返りつつあるのではないかと、私も思いますね。実際、アーティストや作家のなかには、自身を労働者として考える人たちが増えてきていて、仕事に対する基準もそれに応じて上がっています。

「ああ、大手ファッション誌の編集者が来て、私を選んでくれた」みたいなのばかりではなくて、意識的に抵抗するようになってるよね。今起きていることを歴史として編成する存在として、労働者がいるんだと思う。人々が「働いている」と認識するのはとても重要だよ。僕は黒人の美学に居場所を与えるために活動してるんだ。盗用の問題の一部は、名前がつけられていないこと、クレジットされていないことにある。『The New Black Vanguard』は、名前を与えるプロジェクトなんだ。ヘアスタイリストやメイクアップ アーティスト、あらゆる人が全員クレジットされているから、実際にこれは「この人」の作品なんだ、「この人」はこんな風に考えているんだ、という感じで見直すことができる。その規範の中に自分自身を書いておけば、もう消されることはない。

その次にくる問題はいつだって、この仕事から利益を得るのは誰か? あなたの名前を使って利益を得るのは誰か? あなたのアートを使って利益を得るのは誰か? だからですね。

『Vogue』は、過去126年間やってきたことをそのまま繰り返し続けることができるのならばそうするだろう。この事実を僕らが認めないのなら、それは自分たちをごまかしているということ。大衆はアート界に今以上のものを求めていて、上の人が考える美の概念をもはや受け入れなくなっている。業界はここまで追い込まれているのだという考えを持ち続けることが重要だ。それは、業界が内省的であるのとは大きく異なるよ。

過去50年間に正しいことを行っ芸術系の組織はひとつも存在しない。多くの場合、黒人アーティストたちは、キャリアのすべてで醜名を流すことなく過ごすか、死ぬかしないと、西洋の視覚文化への貢献が認められない。この先、長いキャリアが待ち受け、関心が変わり、未来の写真の可能性について考える若いアーティストたちがいる。彼らの作品は、こうしたイメージがどのように事実を反映しているか見せてくれるよ。

僕がこの展覧会をキュレーションしたのは、こんな展覧会を見たかったから。この本を書いたのも、こんな本を読みたかったから。毎月新しい『i-D』が発売されるのを待ちわびてBarnes & Nobleに行って、まだ売っていなかったら次の週にまた通っていた、15歳の自分の存在があったのはわかってる。僕はこれらのイメージに憧れていた。だって、こんなイメージを作る人が「実際にいた」ことを知らなかったからね。

批評家としては、この本には議論を始めるきっかけになってほしい。事実として捉えるのではなく、じっくりと考えてみてほしいんだ。若いフォトグラファーたちは、疑問をぶつけられるべきだから。これらの写真は、僕らの歴史を支え、照らし、奥行きを与えてくれる。それが歴史なんだ。それが、この瞬間、僕がしようとしていること。たくさんの異なるアイデアを心の中に持ち続けて欲しいね。

Antwaun Sargent 着用アイテム:ブレザー(Loewe)トラウザーズ(Loewe)帽子(Jil Sander)

Haley Mlotekはブルックリン在住のライター兼エディター、およびオーガナイザー。全米作家組合におけるフリーランスのデジタルメディア産業に働く労働者に特化した、フリーランス連帯プロジェクトの共同議長を務める。『The New York Times Magazine』、『The Nation』、『Hazlitt』その他多数に執筆。現在、ロマンスと離婚をテーマにした作品を執筆中

  • インタビュー: Haley Mlotek
  • 写真: Dana Scruggs
  • スタイリング: Kyle Luu
  • 写真アシスタント: JD Barnes、Paula Agudelo-Poulsen、Rahim Fortune、Rhianydd Hylton
  • Date: January 13, 2019