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シーズン再開を敢行するNBAの裏事情を、ナサニエル・フリードマンが読み解く

  • 文: Nathaniel Friedman
  • アートワーク: Sierra Datri

「止められない」と「避けられない」は違う。「止められない」は、環境に負けることなく、予想された限界を克服する意志の行為を意味する。つまり、勝利だ。「止められない」は、現実と空想や野心のあいだに横たわる大きな隔たりも乗り越えるような、ありそうにないことを可能にする。だからこそ、精神を鼓舞し刺激する。「止められない」は決して色褪せない。それどころか、期待すればするほど、そして期待する回数が増えれば増えるほど、いざ勝利が現実となったときに僕たちは唖然とする。

「避けられない」はまったく別物だ。人間味がなくて、機械的で、ワンパターンだ。熱く胸に抱いたり、我を忘れるほどに熱中したりする対象にはならない。「避けられない」は、そうならざるをえない物事の流れであり、それは誰かがそう望むからではなく、それ以外にありうる結末がないからだ。だから、いかなる緊張関係も存在しない。

NBAから2019〜2020年シーズンの再開というアイデアが浮上した当初、これは「止められない」の範疇に入る話だと思われた。場所によってはパンデミックが最高レベルの猛威をふるっていた上、そうでない場所もこれからだろうと予測される状況なのに、単に願望であるにせよ、なぜか、大感染はまもなく収束するという意見の一致があった。ただしこれは、最初からパンデミックの事実を認めないのとは違う。NBAは、パンデミックが中止したものを再開することで、復活の手本を示し、正常復帰の旗振りになろうとした。今シーズンは特別だということを除けば、すべてが以前と同じになるだろう。

今にして思えば、NBAの再開で正常になるわけがなかった。「再開」という言葉自体が不正確だった。一体どうすれば正常になれるというのだ。NBAが描いたもっとも楽観的なシナリオにさえ、新型コロナウイルスは依然として長い影を落とす。日程は短縮されるし、試合はどのチームにとっても中立的な一カ所で行われる。この場所は、後に、フロリダ州オーランドのディズニーワールドと判明した。そして、スタンドに観客の姿はない。選手は定期的に検査を受け、何か月にもわたって「バブル」の内側で生活する。実際に設定されるバブルは僕たちの想像とは違っていたが、それにしても、観客を非常に陰鬱で不穏な気持ちにさせた1970年代のSFスリラー映画の題名みたいで、不吉な呼び名だった。

今にして思えば、NBAの再開が正常になるわけがなかった

詳細が明らかになるにつれ、正常の手本を示すはずが、正常を思い出せるものに飢えた大衆に、救いの手を差し伸べる結果に変わっていった。試合を取り囲む諸々は以前と違っても、試合自体は以前と変わらず、観る者を夢中にさせるだろう。それはもはや、僕たちの生活に起こりうる可能性というより、眼前にぶら下げられた輝かしい目標になる。

だがここで、見通しは悪化した。フロリダ州の感染率が急激に上昇する状況でオーランドにバブルを設けるのは、あまりに現実を無視した行為であるばかりか、不必要なリスクを招く。実際問題として、毎日ディズニーワールドの従業員とNBAの関係者が出入りするバブルは決して遮断された空間ではないのだから、懸念はさらに高まった。感染検査が始まると、バブルに入れる選手の数も減り始めた。ヒューストン ロケッツの頼もしいバックコートであるジェームズ・ハーデン(James Harden)とラッセル・ウェストブルック(Russell Westbrook)の陽性が判明すると、主要選手が何人も除外されたのでは試合自体が無意味ではないかと疑問が持たれた。

すでに確証から希望的気休めに格下げされていたバブル構想は、一種の現実否定に思われ始めた。周辺まで新型コロナウイルスが迫ったことだけが理由ではない。この夏、パンデミックと並んで大衆意識の中心を占めたのが、「BLM (黒人の命は大事だ)」運動だ。6月の下旬には、カイリー・アービング(Kyrie Irving)、エイブリー・ブラッドリー(Avery Bradley)、ドワイト・ハワード(Dwight Howard)、ルー・ウィリアムズ(Lou Willams)を含む選手代表団が強い声明を発表した。シーズン再開は危険であると同時に、抗議が提起した人種差別問題から目を逸らせる点で、受け入れ難いという主張だった。ハワードは、バブルという過酷な労働条件とスポーツ界における人種差別的な力学の関連を匂わせた。

だが異議は、速やかに静かに、流れ去った。NBA選手協会は予定どおりの再開に合意し、選手にはバブルに参加しない選択肢が提供された。不参加は、給与からかなりの額を失うことを意味する。一方で、レブロン・ジェームズ(LeBron James)は、政治的手段を望む選手はバブルを共通の基盤として利用できるという、どちらにとっても好都合な考えを示した。やがてNBAから、サイドライン上に「Black Lives Matter」の文字をペイントすること、選手は着用するジャージの背中に「社会正義を求める」フレーズを表示できることが発表された頃には、実質上、反対意見は完全消滅していた。共和党上院議員のジョシュ・ハウリー(Josh Hawley)は、ここぞとばかりに、NBAが警察を憎み中国を甘やかしていると非難したが、彼以外に不満を持つ者がいたとすれば、選手が選ぶフレーズはNBAが事前に承認したものに限られることに対してだろう。

かくして、シーズンの再開は「避けられない」範疇へ移行した。あらゆる障害が、必ずしも納得のできない方法で、苦もなく解消された。だが、崇高な意図をすべて失い、躍起になって突き進む「再開」への動きは、本性を顕した。最初からこうなることに決まっていた、これが結論だ。NBAはビジネスであり、シーズンを再開できなければ、NBAも、それぞれのチームも、そして選手も、深刻な財政的打撃を受けることは必至だ。テレビ放映権はNBAの主要な収入源のひとつだが、ゲームが行なわれない限り、NBAは契約を履行できない。するとNBA全般の収入が大幅に影響され、オーナーが選手に支払える金額が制限され、多額のペナルティを被ることになる。その結果、有望な選手の大々的な移籍と減俸が生じる。現在のNBA体制で、これは想像を絶するシナリオなのだ。

シーズンの再開は最初から「避けられない」ことだったし、最後には、真意を偽装する術がまったく残されていなかった。事態の進展を目にして、湧いて当然の不信感を持たないほうがむしろ無理だった。だが明日NBAが復活しても、大衆は試合を見るだろう。 これもまた、「避けられない」ことだ。いつ終わるともしれないパンデミックのなかで、人々は孤独であり、鬱々とした気持ちを抱き、意気消沈している。何かやることを見つけようと躍起になっている、囚われの観客だ。同時に、大部分の大衆は身近なことには関心を向けない。現状への対処メカニズムとして、欲しがることを自らに禁じているからだ。とにかく食べるしかないときがある。空腹だからでも、食欲があるからでもなく、食べないという選択肢がないからだ。今僕たちが消費するコンテンツは、楽しさや満足感の問題ではない。多少は楽しめない部分があっても、しがみつく対象だ。生きていくためだ。

他に選択の余地がないという理由で、しかも他のコンテンツと区別もできない状況でバスケットを観る。想像するだけで、僕はゾッとする。大切なものは、唯一無二の特別な存在であってほしい。大雑把に同じようなものに置き替えたら、何かが失われる。おそらくもっと重要なのは、僕たち自身が特別であり唯一無二であると感じたいと思っていることだ。NBAが単なるひとつのコンテンツに「成り下がる」のを僕が恐れるのは、多分、それによって方程式から僕の役割、ひいては僕の一部が抹消されるところにある。コンテンツであれ他のものであれ、「食べるものがあなたを作る」と前提する消費モデルに則るなら、喚起される欲求の成り立ちをほとんど考慮せず、消費するしかないという理由で誰もが同じものを食べれば、消費は正反対に作用する。そんな消費は、僕たちは見分けのつかない存在に変えてしまう。

これは「僕」だけの問題なのかもしれない。スポーツ観戦に関する限り、僕は常に超が付くほどの個人主義だった。唯我主義と言ってもいいくらいだ。そして、そんな僕自身の切り口をかなり上手く開拓し、独自の解釈を押し進め、僕の関心を刺激するか否かだけに基づいて愛着の対象を選んできた。そういう方法でスポーツ コンテンツを消費することは、僕にとても大きな満足感を与えてくれた。成人後の全生活を通じて変わらぬ喜びの源泉であり、基本的には、独特な立ち位置であるがゆえにキャリアを築くこともできたのだ。だが、それには限界もある。孤立することもあるし、不安定な感覚は免れようがない。僕という個人のために僕という個人を通して存在するだけだとしたら、そんなスポーツは果たして現実と言えるだろうか?

だがスポーツは確固たる現実だし、そのパワーは共有される点にある。同じ対象を消費する者は互いに親しく結びつく。観客の間に生まれる仲間意識は、結束と同一とは言わないまでも、まずまずの代用ではある。好きか嫌いかで人々を分けようとしても、スポーツの親しみやすさは等しく訴求力を発揮する。普通のファンだったら、内輪の仲間以外には理解できない言葉を操る方法だけでスポーツ コンテンツを消費する玄人肌のエリート ファンより、ファンでない人との共通点のほうが多い。スポーツは、大まかな仕組みさえわかれば、全体的な目標とそれに伴う感情は見当がつくのだ。だからこそ、スポーツはかくも多くの人と共鳴できる。

好きか嫌いかで人々を分けようとしても、スポーツの親しみやすさは等しく訴求力を発揮する

もしかしたら、シーズン再開は疲弊や妥協の結末ではないのかもしれない。スポーツのひとつの側面である「観戦」が強調されるだけなのかもしれない。それが、現状で激しく求められる側面だから。誰もが自分と同じものを同じ方法で体験していると思えば、安心するし、励みにもなる。再開が「避けられない」ことだった点では一体感を欠くものの、観戦の価値が失われるわけではない。同様に、僕たちはあまりに打ちのめされて、個人としてのきちんとした視点や理解をまとめることもできないし、果たしてそうしたいのかもよくわからない。重要なのは、競技そのものより、僕たちがそこから掴み取るものだ。

基本的に、コンテンツが素晴らしい仲間意識を作りうるなら、その意味合いはスポーツ以外へも拡大し、パンデミックへの対処を後押しするだけではなく、抗議運動に対する大衆の反応を握る鍵ともなる。抗議運動が提起した諸問題は、決して新しいものではない。だが大きなうねりを見せた世論の高まりは新しいものだった。そして、この転換を説明するには、「何か」が変わったという信念しかなかった。これしかない。確かに、警察が白人の抗議者に怒声を浴びせる動画は目新しかったし、現在のような囚われの視聴者も前例がなかった。だが、動画が意味を持ちえた理由は、ひとえにそれを観る視聴者の側にあった。視聴者は、自分以外の世界の人々も、同じものを観ていると知っていたのだ。

個人の概念が混乱の渦中にあるとき、それに代わって、僕たちは観客という共通の立場にすがりつくことができる。共通の体験を求める願望から、個人的な慰めは共有の感覚に場を譲った。個人としての追求を止めてしまうと、社会を個人的な追求の場とみなしていたときとは対照的に、物事がより大きい全体へ作用していることに気づくし、僕たち全員に向けられた国民投票のようにも思えるものだ。差し当たり今は、何を観るかではなく、どう観るかで僕たちが決まる。いつかはこれも終わって、僕たちは再び自分に戻れるだろう。だが少なくとも少しの間は覚えていたい。僕たちが違う存在であるより同じ存在であったことを、すべてが姿を変えて、おそらくいくつかの点では前より良くなったときがあったことを…。

スポーツ ファンとしての僕の姿勢は大きな自由を与えてくれると、かつての僕は考えていた。だが孤立の状況が当たり前になった今はとりわけ、僕は考え違いをしていたのだろうか、自分を独立独歩の先鋒と見做すことには限界があったのだろうか、と考えることが多い。仮に、たとえ正常な状況であっても、消費とはアウトサイダー的な立場を取るか集団に加わるかの二者択一ではなく、集団アイデンティティの基盤なくして個人アイデンティティはありえないと認めることだとしたら? つまり、外側へ出るには、先ず内側へ入ることが前提であるとしたら? これまで何年もバスケットボールを観戦してきたが、これまでの僕の関わり方のせいで、今の僕がもっと自分らしさを感じる代わりに、本来の自分を感じられなくなっているとしたら? 何もかも普通なふりをしたり、もうすぐ普通に戻ると誤魔化したりすれば、NBAのシーズン再開は失望に終わるだけだろう。目下のところ、スポーツに期待するのはまさにそのことかもしれない。

Nathaniel Friedmanは、FreeDarko創設メンバーのひとり。以前は『Victory Journal』の編集者を務めた

  • 文: Nathaniel Friedman
  • アートワーク: Sierra Datri
  • 翻訳: Yoriko Inoue
  • Date: July 30, 2020